【櫻坂46】BANされるのは誰なのか?
櫻坂46の2ndシングル「BAN」
すでに4thシングル「五月雨よ」がYouTubeで公開されている中で今更感ありますが、この曲は欅坂46時代から比べても一番くらいに好きな曲です。
ひとえに聴いていて疾走感とカタルシス感があり、それはカッコいいMVと曲調によるものです。今までは「サイレントマジョリティー」と「アンビバレント」(それぞれ欅坂46の1st、7thシングル)の二代巨頭でしたが、BANはそれを上回りました。
ただ一点を除いて。
疾走感でかき消されがちですが、よくよく考えたら歌詞はどうだろうか?
BANの歌詞で書かれる主人公(?)は「明け方までスマホで動画観て」、「全てのことに遅刻して」、「ずっとゲームしてるうちにいつしか大人になってた」ような人物像です。
そういう怠惰な人間、私はあまり得意ではありません。寄り添うこともしづらいです。
自分で言うのもなんですが、私は大学時代に授業をひとつたりともサボらず(遅刻はあります💦)、読書をして、自分からものを考え、レポートも最低字数を大幅に上回るくらい書いているほど、周囲に比べたら勉強している方だったと思います。逆に授業を出席と過去問収集だけ頑張り、あとは全部就活に回す、もしくは就活すらテキトーな人が嫌いでした。まあ今思えば、それは私なりの意地というか存在理由というか、こだわりでしかなかったのですが。
類は友を呼ぶとはよく言ったもので、私の周りには自然と勉強好きの友人が集まりました。いわば私のこだわりに終始していても快適だったのです。そんな状況下では、櫻坂46のBANに出てくる主人公のような人物は想像することも叶わないほど、ありえない存在になりつつあったのです。
就職して、周りは一変しました。
休みの日には寝てばかりいる人、24歳にもなってゲームをずっとやって親に反抗する人(ゲームを極めるのも素晴らしいと思いますが、反抗するということは一貫した道になっていない)、いまだに外国人を「外人」と呼んだり、ゲイや女装家を「ホモ」とか「オカマ」とか言ってはばからない人など、ありえない存在がわんさかいるのです。ここでは私の方が少数派であり、自分を出せない、出しても奇人扱いされるような場所なのだとわかりました。
櫻坂46のBANでは、主人公は怠惰のゆえに周りから置いていかれ、「僕だけが退場」させられた(=BANされた)ように感じるのです。
それに対し主人公はサビで、
「Banされても禁止されてもダメだって言われても もう今さら違う自分になれるわけないじゃない?」
と訴えるのです。
私も大学時代のまま周りから置いていかれ、要は周りが大人として「普通」に準じて生きられるようになった一方で、私だけが「特殊」なまま、社会から「退場」させられたような気分になります。
しかしBANの主人公は、ただ怠惰を貫くダメ人間というわけでもないように感じられます。
二番のサビで、
「Banされたらどうすればいい?知らなかっただけなんだ もう一回くらいやり直すためにチャンス与えてくれよ…(中略)…若さってのは失敗のための猶予って信じてた 神様過ちを許してください」
と、起死回生をはかろうとし、ラストのサビで
「どんな状況に追い込まれても 僕は絶対Banされるものか」
と告げます。
本当に怠惰な人間は、自分の状況を顧みることも、再起しようとも考えないはずです。その上、自分が正しいと思うことなく、自分は怠惰でダメな人間なんだと自覚しているのに、変わろうとしないものです。それに比べてこの主人公は、自分は怠惰であったが、それではいけないと身につまされ、「Banされるものか」と奮い立つのです。
私は自分が物事を考えるのが特殊で奇怪に思われるとは思っていますが、その態度が正しいと思っています。社会学的に社会を批判していくことは茨の道ではありますが、一方通行で、もう考えないで生きていくことはできなくなります。今読んでいる韓国の『私は男でフェミニストです』という本でも、著者がフェミニズムに傾倒していったがために息苦しくなっている姿を見ています。
BANの主人公のように、自分を180°変えるわけではないけれども、ただ漫然と自我を一貫させるだけでは、やはりBAN(=「退場」)させられてしまう。
何も考えない人間も、ただ社会に憚るだけも人間もBANされるのであり、社会という地に足をつけながら、自分の頭で考えて行動できる人、そうした人こそ生き残っていくのであり、いくべきなのかもしれません。
そんなことを考えさせてくれたBANの歌詞、やっぱり素敵なものかもしれません。
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