yon-1997’s blog

架空地図と社会学的想像力とその他

自分が存在するとはどういうことか

大学時代に社会学を学んでいた私ですが、自己論(という言い方をしていたような、アイデンティティ論といったような)は4年間常に勉強していました。自分と他者の相互行為。シンボリック相互行為論とか、よく言っていたような気がします。高校生までの自分が思っていた「自己」というものと、大学生になって学んだ「自己」というものの違い。自己とは自分によって作られるものではなく、他者によってみられるからこそ現れるという、なんかそんな感じの理論に惹かれていたと思います。

理論があまりにも抽象的すぎて、すでに怪しくなってしまっています。今このブログを書きながら、手元には『社会学小辞典』を置いています。ついでに大学生時代、試験勉強のために授業内容をWordにまとめていたものを見返したりしています。

自分が行う行為も、社会的行為とか言ったりして、決して自分が何かをするだけで完結するのではなく、社会の中で規定されるのです。

 

承認欲求、という言葉をよく聞きます。

他人から認められたい、かわいいと言われたい、すごいと言われたいなどなど、自分をすごいと思わしめる欲求です。Wikipediaからの引用で恐縮ですが、「『他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい』という願望であり、『尊敬・自尊の欲求』とも呼ばれる」とも言われています。

 

しかし社会学をかじった私からしたら、承認欲求=自分の存在・行動がすごいと他者に認めてもらうという以前に、すごいかどうかという価値判断を抜きにした、自分という存在そのものもすでに、他者から承認される必要があると思っています。自分は他者にみられるからこそ自分なのであり、地球上に自分一人しかいなければ、自分という存在は存在し得ない、という立場です。

 

地球上に自分一人というのは大袈裟ですが、他人に見せたことない自分の姿というのは、その見せてない自分の姿に限っては地球上のただ一人となってしまいます。つまり、他人に見せたことない自分の姿というのは、この社会に存在しているとはいえません。

 

「誰に見せるわけでもないからいい」とか、「バレなきゃ犯罪じゃない」というのは、この考え方に通じるものがあります。

 

私はこれまで一人で架空鉄道や架空地図を作っていましたが、今年から積極的にSNSなどで公表しています。書き始めたはてなブログでも、時々見せびらかしています。

見せびらかしていると書いたのは、私は自分の姿を社会的に存在させるためにブログやSNSで架空鉄道などを公表していますが、それは私生活でも仕事上でも顔を覗かせることはないですし、友人に示す必要もないこと、さらに自己満足で完結させることも可能ながら、わざわざ誰かに見てもらい、社会的な存在にしたいというエゴが存在するため、「見せびらかし」と書きました。

リア友に見せる用のインスタも最近始めましたが、それも同じ。友人に自分の私生活(料理とか、食べた外食)を見せることで、自分というものの総体(仕事や雑談で関わる自分の姿+α)を友人に見せ、友人との間の社会に私の総体、真の私を位置付けるのです。しかしリア友には架空鉄道は見せていません。友人との間の社会には、架空地図を書く私は存在しないのです。ということは、真の私はやはり存在していないのかもしれません。

社会は複数あるのです。いや、社会は一つであっても、ある空間と別の空間の間には、パーテーションや私しか持たない鍵でしか開かない扉で隔たれており、兄弟で共有する一部屋のように、簡易的な仕切りながら確実に仕切っているにすぎないのです。

 

いいねの数が欲しいわけではないですが、いいねをもらうということは、確実にその投稿を見てもらっている、つまり自分の姿を見てもらっているということであり、要するに自分の存在を社会に固定しているということです。裏を返せば、いいねの数がわからなくてもその投稿を見てもらったということがわかればいいわけです。

 

 

自己論は社会学や心理学で定説があるものの、あまりにも抽象的かつ主観的な部分が大きいため、十人十色の自己論が存在しそうです。